昭和五十六年六月三十日 大祈願祭
 御理解弟88節を頂きます。御理解第88節「昔から親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思うとき、鏡を立てて、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである」

 信心をして教えを頂いて、そのみ教えを身をもって行じさせて頂いて、初めの間はつろうてつろうてというようなところもあろうけれども、そこを教えの鏡を立てては辛抱していくうちに、だんだん信心辛抱の徳も身についてくるようになり、そこからいよいよこの世に生を受けた生きがい、いわゆる甲斐ある命に目覚めてくるのであります。
 この世に生を受けたということに対する意義を感じる。何のために人間はこの世に生を受けてきたのかと。それが理屈を聞けば、そうかも知れん、そうだなと分かるんですけれども、言うならば辛抱しきれないような時であっても、そういう時、神様に一心におすがりをして教えを頂いて、その教えの鏡に照らされる自分というものを見極めながら生活ができるようになる。そこから始めて黙って治めるということの、神様にすがって辛抱するということの素晴らしさ有り難さが分かってくるようになり、だんだん信心が分かってくればくるほど、この世に生を受けた、いわゆる、拝詞の中にもあります、甲斐ある命に目覚めるということなんです。だから甲斐ある命に目覚めるというところから、初めて本当の信心、いわゆるもう泣き泣き辛抱ではありません。もう有り難うして有り難うして、もったいのうしてもったいのうして、それこそ嬉しゅう有り難うしかも愉快にならせて頂ける状態で一生を過ごさせて頂ける心の喜び、心の安らぎ、その心、安らぎの心そのままがあの世にももって行けるということが分かってくるところに死生の安心というような大きな宗教の眼目にまで触れていけるのが、お道の信心です。
 それを教祖は「此の方ばかりが生神ではない。みんなもその通りのおかげが受けられる」はあ生神様と言えばそれこそ見抜き見通し自由自在、そういう例えばおかげを頂くことのための生神ではなくて、只今私どもが申します、甲斐ある命に目覚めたところから始めて進められていく信心を生神への精進ということになるのです。
 信心がね、そういう意義あるものになって来なきゃならない。それを端的に感ずるのが今日の大祓式ですね。今大祓式とは申しません。ここでは交通安全祈願、悪疫予防の大祈願祭と銘打ってのお祭ですけども、このお祭ぐらい端的に意義を感ずるお祭はないですよ。年々たくさんな人の「はらえつもの」によって、ここにお参りをしなくても遠隔の地であってもお祓いを受けておけば悪疫にかかることもなく、自動車のお祓いを受けておけば、例えば今年でも千数百台ですけれども、の車がお祓いを受けておるというだけで、交通安全の御神米を頂いておるというだけで大きな事故にも遭わず、もう取り返しのつかんといったようなことにもならず。これはどんなに考えても不思議な不思議な奇跡現象ですね、合楽でおかげを受けておる今の状態は。そういうこれは私どもが生き甲斐を感ずるとか今申します生神へ向かうとかいう高度なところに焦点を置いたものではありません。ただ病気をせんように、または事故などのございませんようにという人間の欲から出た願いなんですけれども、それとてもやはり信心があろうがなかろうが。
 昨日、敬親会で熊谷さんが発表しておられましたが、今年は足が悪いから、いつも隣近所、親戚の方達の車やらはらえつものやらを配って回られたり、それをもって合楽にお願いをなさいます。ところが今年は足が悪くてできないもんですから、それができなさらんでおったところが、今まで配って歩いておった所の方達が、もう合楽の大祓いのお祭じゃろうと思うて、おばしゃまの所まで来たら用紙があるだろうから頂きに来ましたという方達がたくさんあったと発表しております。合楽でお祓いを受けたおかげで事故もなかったばい、病気もせじゃったばいというものが年年歳歳はっきり分かってきた。初めの頃は、それをもらいに行くと、やっぱりお金の千円なっとお初穂を包まにゃでけん。だから今年は私のところはよございましょうと言う人もあった。ところがそういう時に限って事故があった。明くる年からこりゃどうでんお願いしとかにゃいかん。これはべつにここに参ってくるわけでも、信心しとるわけでもないのだけれども、そういうおかげを受けておるという事実なんです。それが昨日の熊谷さんの発表でしたが、いわゆる端的に意義を感ずるお祭というなら、この今日のお祭だと思うですね。そりゃもう全然事故がなかったということじゃないですけれども、それはほんとに大難を小難、小難をほとんど無難のようなおかげを頂いて、もうほんとに取り返しのつかんことになったということのないおかげを受けておる。しかも千数百台の車がということになってくるときに、これは奇跡と言わずして、ただふがよかったと言うだけでは済まされないものがあります。そういう親のある子と無い子ほどの違いを端的に見せていただくお祭りだと思います。
 と同時に、そういうところから言わば本当のいわゆる甲斐ある命に目覚める手立てというものがです、どういうことからでも頂けてくるようになり、それこそつろうてつろうてとうような時もここを「金光様、金光様」で泣き泣き辛抱していくうちに、教えを身につけていくうちに、それが神愛と分かり、神様の御都合と分かり、その御神愛に添い奉る心の信心がだんだん出来てまいりますと、そのこともまたおかげであったと分からせてもらい、起きて来るすべての事柄が御事柄として、また御成り行きとして受けていけれる。しかもそこには天地との調子が出てくる。
 昨日、大城のあそこは何と言う所でしょうか、熱心に若い嫁さんが、吉田さんと申します。お参りして見えます。おかげを受けられるから、その姑親であるお母さんもいっしょにお参りになる。隣村の何々さんという人も、こうして難儀しておられるので、ぜひ合楽に連れて参ってくれというようで、参ってそれが一つ一つおかげを頂いていく、その喜びが、毎日何か商売なさっておられるようですが、商売の上に現れてくる。それを見る周囲の人達が、なるほどなるほどと合点していくおかげを現し、熱心に信心して、毎日今はそのお母さんと癌でおかげを受けたという人と三人で昨日も参ってまいりましたがね。もうほんとにこんなに恐れ入ることはありませんと、ちょうど昨日一昨日が家崩しがございました。こりゃどうでも梅雨の中だから天候の上におかげを受けなきゃいけんということでお願いさせて頂いておりましたら、もうおかげを頂いて、お湿りもなし、とにかくかせに来る、太刀洗の方からかせに来る人があった。隣村の牛の川というところから来る人があった。もう牛の川もどしゃ降りする、太刀洗も雨が降ったけん、今日はあげん言いよったばってん、途中で上がるならばってん、まあ行ってみらじゃこてで来た人達が、その吉田さん所まで来たところが雨一滴降らないのにびっくりしたという、昨日揃うてお礼のお届けがございました。もう間違いなく天地のリズムを聞きながら、言うならば日々のお商売なり御用が出来ておるのです。だから天地が吉田さんのために自由になって下さるんです。というようにです、初めは段々泣き泣き辛抱しながらです、辛抱しぬいていくうちに信心辛抱の徳を受ける。またはその辛抱しとった事柄の内容が神愛であり、神様のお働きであるとして、御成り行きとして辛抱していくうちに段々わが心が生神へ向かう精進になってくる。いわゆる黙って治めることの素晴らしいこと。もう一切お礼を申し上げる他にはないというようなところに、例えば今日のお祭りが、なるほど端的に言えば、こんな便利のよいお祭りはないというでしょうかね。まあそういう意味において意義のあるお祭りだけども、それをそれだけのものにせずに、いよいよわが心が神に向こうていく精進が何時の間にかできていくような信心の構えを作らなければいけません。
 昨日ここで長年修行しております、岩部という先生がおります。一家を上げて福山の方から参拝をしてまいります、お父さんが。それで弟達も3人の兄弟が三人ともここに修行にまいりましてお道の教師の資格を取りました。ところが先だってから、ちょっと問題がありまして、弟二人があちらへ帰った、里の方へ帰っております。そのことを一番兄さんである岩部先生が御祈念をさせて頂いておったら、剣道の稽古をする時に、剣道の下着を頂いたと、剣道の下着をご心眼に。どういうことでしょうかとお伺いに来ましたから、私は申しました。これはどんな稽古でも同じである。信心もただ剣道も、はああの人は上手とかいうて目が肥えてきて見ておるだけでは上達はせん。やはりまずは下着をつけなきゃならん。防具もつけなきゃならない。面も小手もつけなきゃならない。そして竹刀も握らなきゃならん。そして言うなら道に応じての稽古がなされていくときに、初段が二段、二段が三段というように一段一段、段がついてくるようになる。ただ合楽でお祓いしてもらえばおかげいただくけんというだけの、言うならそれは、ちょうどそれを見ておるようなもの、だけのものじゃないでしょうか。ここで修行しとりますと言うてもです、黒衣を着ておる、羽織、袴着けとるというてもです、やっぱそんな人がないじゃないです、あります。あんたなんしぎゃ来とるのと言いたいような人があります。ですからほんとにその防具をつけて本気で竹刀を持って稽古していくうちに叩かれもしましょうけれども、構えておるから痛くないです。それを構えておらん時に、ポカンとやられるから、ああ痛よと言うてから信心な止めてしまう結果にすらなるのです。
 だから問題は今言う、今日のお祭りが端的に言う意味においての意義のあるお祭りですけれども、そこから入ってからでも、今日の御理解じゃない、鏡を立てて人に悪い顔を見せんですむようなところをいく時には、まだ辛い、辛抱、それこそ神にすがって辛抱しぬかにゃできんけれども、その辛抱しぬきよるうちに、普通の辛抱じゃない、我力じゃない、鏡を立ててである、教えを頂いてである、だからその辛抱が信心辛抱ですから、信心辛抱の徳が身についてくる。もう辛抱という言葉はないくらいになってくるんです。信心辛抱の徳を受けて、そしてそれが生神への精進であるということが分かった時に、初めて甲斐ある命に目覚めた時じゃないでしょうかね。どうぞ。